現行の 60干支表
十二支 意   動物
十干  意    読み方
水性の陽 鼠(ねずみ)
土性の陰 牛
木性の陽 虎
木性の陰 兎
土性の陽 竜
火性の陰 蛇
火性の陽 馬
土性の陰 羊
金性の陽 猿
金性の陰 鶏
土性の陽 犬
水性の陰 猪
木性の兄(陽) 「きのえ」
木性の弟(陰) 「きのと」
火性の兄(陽) 「ひのえ」
火性の弟(陰) 「ひのと」
土性の兄(陽) 「つちのえ」
土性の弟(陰) 「つちのと」
金性の兄(陽) 「かのえ」
金性の弟(陰) 「かのと」
水性の兄(陽) 「みずのえ」
水性の弟(陰) 「みずのと」
十 干 十 二 支 調 書
干支の構造 右に示す
甲、乙、丙、丁、・・・・・の十干と、
子、丑、寅、卯、・・・・の十二支から、
60に相当する組み合わせを順次ならべて
作ったもの。右下の表

この60干支を年順に付してに周期的に繰り
返し、年の呼び名とする。
また月についても同じく60干支を月順に
付して周期的に繰り返す。
また日においても同じく60干支を日順に
付して周期的に繰り返す。
干支の始り   60干支をに配当するのは中国で殷の時代
(紀元前1400年頃)から行われていたと言う。

ただし、その当時、は十二支で呼ばれていて
歳を干支で数えるようになったのは
漢の時代
(紀元前200年頃)と言われている。

日本では中国から伝わり、暦法施行
持統天皇時代
(紀元690年頃)から使われだした
と言う。
日本書記の歴日 暦日に関する研究は天文学者小川清彦により第二次世界大戦前に既に完成していたが、当時の状況はその研究の公表を許さず、戦後ようやく発表されたのであった。『日本書紀』は完全な編年体史書で、神代紀を除いたすべての記事は、年・月・日(干支)の様式で記載されている。記事のある月は、その月の一日の干支を書き、それに基づいて、その記事が月の何日に当たるかを計算できるようになっている。たとえば、憲法十七条の制定は「推古十二年夏四月丙寅戊辰(へいいんさくぼしん)」であるが、これは四月一日の干支が丙寅であって、戊辰は三日であることを示している。

神武天皇の即位を紀元前660年に当たる辛酉(かのととり、しんゆう)の年を起点として紀年を立てている理由は、中国から伝えられた讖緯説を採用したためという学説が明治に那珂通世(なかみちよ)によりうちたてられ、学界で広く受け入れられている。三善清行による「革命勘文」(『群書類従』 第貮拾六輯 雜部 所収)で引用された『易緯』での鄭玄の注「天道不遠 三五而反 六甲爲一元 四六二六交相乗 七元有三變 三七相乗 廿一元爲一蔀 合千三百廿年」から一元60年、二十一元1260年を一蔀とし、そのはじめの辛酉の年に王朝交代という革命が起こるとするいわゆる緯書での辛酉革命の思想[22]によるという。この思想で考えると斑鳩の地に都を置いた推古天皇9年(601年)の辛酉の年より二十一元遡った辛酉の年を第一蔀のはじめの年とし、日本の紀元を第一の革命と想定して、神武の即位をこの年に当てたのである。後年計算違いを主張する研究者も多い。

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